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強い人間とは、どんな人間か、人間は強くなれるのか。

その1 いかに私は弱い人間だったか、弱い人間であるか。

Kanasii_jpg私を実験台にして
強い人間いついて考えてみよう。

私は時々、強い人間だ
強い人だと言われる
ことがある。

それは、とんでもない間違い。
大きな誤解だ。

私はまったく強くない。
いや非常に弱い人間だ。

かって私は、息をして
存在し生き続けることだけでも
苦しくてつらくて
もがいてもがいて
なんとか死なず昼まで生き
何とかもがいて夜まで生き
何とかもがいて翌朝まで生き
かろうじて死なずに存在し続けていた
そういう弱い生きもの
であった。

それはいったいどんな
苦しい、どんな苦労、どんな問題を抱え
そんなに苦しいい日々を生きていたのですかと
聞かれると、私は、当時も今も
その説明を充分にすることが出来ない。

存在することの苦、
存在そのもの苦としか
いいようがないのだ。

ドンだけ貧しく苦労したの?
ドンだけ凄い病とたたかったの?
ドンだけひんどい状態で生きていたの?
と、問われれその期待に応えられる
衝撃的な何かを語ることが出来ない。

何ですか?その「存在すること自体の苦」
「生き続けること自体の苦」とは。
そんなのよくある若者的な不安定な
一過性の精神状況でしかないと
言う人もいるかもしれない。

しかし、この私を苦しめた
「存在の苦」は実は
私にとっては充分
たいへんなものなのだ。

えっ、そうなの?と納得いかない
よくわからないという人のために
なんなのか、よくわからない
この「存在していることの苦」のつらさを
想像できない人のために一言だけ
説明しておきたい。

実は、私も人並みに
一編の小説になりそうなくらいの
一般的な価値観での苦労話のような
苦労はしている。

ここではあまりそのことに
触れないが、たとえば一つだけ
小学生の4年生くらいから
小学校時代は、母を助け
時に母親を休ませ一人で
重い病の家族を徹夜で看病したうえ
朝に新聞を配りそのまま、
学校に行ったりというような
少年時代の経験を持っているのだが
その手の苦労話はいくつも
書けるが、実は
この「存在していることの苦」は
いわゆるこれらのお涙頂戴の
わかりやすい苦労話の何十倍も、
何百倍も苦しいものなのだ。

この「存在していることの苦しみ」に
苦しめられる子、人間は
本当に異常に弱い子、
弱い人間なのだ。

私はいずれ異常な弱さ
異常に弱い人間であったのだ。

だから、もがいてもがいて
もがききった。

十代から二十代初めまでの長い十数年。

読みまくり書きまくり
考え抜いた。

考え抜き、書きまくり
書きまくっては考え
考えながら書き
この苦しみを一瞬にして消し去り
そしてこの人生において永遠の決別を
させてくれるコトバや教えやら
哲学を求めて手当たり次第
読みまくり自分なりに思索しぬいた。

私は生き続ける苦しさと
自分の吐き気がするほどの弱さに
ほとほと疲れ切っていた。

私は本当に強さに憧れていた。
強い者、微動だにせぬものに
憧れていた。

強くなりたかった。
死のぎりぎりまでいっても
死ねないのなら、死なないのなら
楽しく生きることは出来ないものか。
何をこんな苦しんで生きているのか。
何が私を苦しめているのか。
誰一人、私をナイフを持って脅すものもいないではないか
誰も毎夜、おまえは豚だ、狸だ、馬鹿だと攻め
虐めるわけでもない。

いったい、誰に何に、何のためなぜ
苦しみもがいていいるのか?
それはいつ果てるとも終わるともわからぬままに
いつまでもがき苦しめば言いと言うのだ!
ああ、もういやだ、つかれ切った!
ああ、もういやだとその苦しみが
耐え難い頂点に達したかと思った瞬間
大地が割れて真っ黒な天まで突き刺ささんかなの
巨大な石柱が、無数に突き出し
真っ黒な土砂の波が濁流となって
私と私の立つ大地を飲み込んだ。

フィニッシュ!

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