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しあわせ前の若者の憂い。あるいは1970年から80年の私へ。

Benntino ボクが笑わないのは
誰のせいでもない。
ボクが笑わないから
ボクは笑っていないのだ。

ボクが楽しくないのは
誰のせいでもない。
ボクは楽しいことが
わからないのだ。
よくよく考えれば
わかるとしても
ボクには楽しいことをする
勇気もエルギーも
無い。

つまり簡単に言うと
ボクが楽しいことをしないから
楽しくないだけであって
誰かがボクをいじめたり
楽しくないように仕向けたり
仕掛けたりているのでなく
ただこのボクが
楽しいことをしないからだ。

それを楽しくないのは
誰かのせいにしたり
世の中のせいにしたり
楽しくないのは
人生そのものが持ち合わせている
共通の普遍の性質のせいかのように
思いこんでいる、思い込ませている
このボクのせいなんだ。

ボクがボクを楽しく生きらせられないの
ボクが楽しいことをしないからなんだ。
たったそれだけの理由なんだ。

ボクが不幸せなのは
不幸せしか知らないからなんだ。
あるいは不幸せが落ち着くからなんだ。
不幸せには、最低限の
生きてる実感と自分自身を感じる
感じていれる居心地の良さがあるんだ。

第一、幸せなんてものがそのそもわからないし
わかっても、わかって幸せというものに
なれたとしても、それを持続するなんて
とても思えないし、持続させる力も
自信も、ボクにはこれっぽちも無いんだ。

だから、ボクは不幸せに落ち着いているんだ。

ねぇ、でも、しあわせって
しあわせな日々って
しあわせな人生って
どんな、どんなもんなんだい。

1970年から80年の
あの頃のボクは
しあわせに恋焦がれていた。

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