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20歳の私へ

19の初夏。高松の市立図書館のロビー雑誌コーナーで
ふと手に取った、今まで読んだこともない講談社の文芸誌「群像」。
講談社群像新人賞 村上春樹「風の歌を聴け」。
手に取り数時間、電撃が体を走り抜けるのを感じながら
立ち読みしてから、一年が過ぎていた。
村上春樹の文体で思考し、書く文章はムラカミハルキに
なってしまっていた。
でも私だけでない。あの頃から、作家も村上春樹に侵され
公募の応募小説はみんな村上春樹になってしまったのだ。
いずれ村上春樹の小説との出会いは
その前から作家志向は、心のどこかにあったのだが
明確になった。画家ではなく作家になりたい。
でも、作家になるには、小説雑誌の公募に小説を応募し
受賞しなければならない。
当時は、その方法しか思付かなかった。
しかし、訳の分からない感傷と論理の矛盾や気持ちの悪い飛躍や
突然現れる表面的断片的ムラカミハルキ調の数十枚で
途切れたり終了する小説とは言えない長文しか書けなかった。
群像新人賞応募は20歳の私の宿題だった。
一昨年前、とうとう30数年時を経て230枚の小説を書き上げ
原稿を講談社に送った。
一応、宿題は終わり。
また、今年や今後書き上げられるかは未定。
でも、書きたいと思ってはいる。
 
20歳の私は地元の国立大に通うも心ここにあらずで
思いはいつも東京にあり、重い東京病にかかっていた。
それから、7年後、結局、大学も中退することなく卒業し
5年ほど教員をやり東京に出た。
6年、生活の糧に予備校で広告や経営戦略の仕事をしながら
花の東京、青山や銀座で1年半、2年ごとに個展をし
勤務前にマックに1時間、2時間籠って絵のエスキースや
断片的文章を書いて、しあわせを感じていた。
どこでもない、あの二十歳の私が、恋焦がれ憧れていた
花の東京の喫茶店で絵のアイデアや文章を書いているのだ。
これ以上のしあわせはない。
ただ、青山や銀座での個展をしても
出版社の誰かが来てイラストレーターに
してくれるわけではなかった。
そして、たとえ東京に暮らそうが、
やはり100枚、200枚の小説を書き上げ
応募しなければ、出版社に持ち込まなければ
小説家になれるわけではなかった。
結局、32歳で故郷、盛岡に戻ってから
私は、大手出版社による世界的なベストセラーの表紙を描いたり
人気雑誌「ダ・ヴィンチ」の特集などイラストを描いたりした。
そして九段の講談社本社に電車で
500円もあれば原稿を持ち込めたのに
ついぞ一度もその行動をとらなかったし
思いつきもしなかった。
400字原稿用紙100枚、200枚の公募小説を
1本書き上げることもなかった。
東京に行き、東京で暮らしていれば黙っていても
何かが起き、イラストレーターや作家やなにやら
何ものかになれると深層思っていたのだと思う。
ただ言えることは、20歳の私の「東京で暮らしたい」
という思いは実現した。宿題を終えた。
 
宿題を終えて安心して、東京病に侵され苛まれることなく
この故郷の町で生き暮らしている。
首都直下型の大地震も怖い。
2011年3月11日の東日本大震災。
発生直後から被災地を見、回っている私は
あの特撮映画でも見たことのない風景以上のことが起こるであろう
街にはとてもでないがわざわざ住みに行こうとは思えない。
ここで、この自分で頑張って行こうと思う。
20歳の宿題もこの人生できちんと提出、実行できたし
これらは宿題でなく、自主学習、自主課題に取り組みたい。

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